私のカレッジ時代は、失敗もたくさんしたけど、地味に努力したことが功を奏して無事に終えることができました。そして、そのまますんなり4年制大学に編入することができるかな? と思いきや、それは甘かったのです。
カレッジからの内申書もそれなりに良かったので、4年制の大学への編入はすんなりいくかと思ってみたら、TOEFLの点数が必要ということで再度受験することに。
いくつか希望していた大学があったのですが、自分としては、教授がいいよと勧めてくださったサイモンフレーザー大学を第1目標・ブリティッシュコロンビア大学(以下、UBC)を第2候補にすることにして、BC州にお引越ししました。
UBCは当時TOEFL580でOKでした。サイモンフレーザーは570で、筆記テスト5、筆記テストがないTOEFLの場合600必要だったと思います。UBCの580は結構すんなりとれたのですが、サイモンフレーザーの筆記がとれず苦戦。
結局TOEFLの点数が足りずに、当初予定していた9月からの入学を諦め、ひたすらTOEFLの問題集との戦いでした。片っ端から問題を解いていって、分からないものはすぐに質問。当時、月に1回しか受験できなかったため、毎月ドキドキしながら受講していましたが、残念なことに結果は出なかったのです。
両親もそれにはホトホト飽きれたというか、あきらめモードになり、お金もただ英語を勉強するのに応援するのはということで、期限を決めることになりました。春までに決着がつかないなら、日本に帰ること。それが親との約束でした。いずれにしても、最初カレッジだけ卒業したら日本にかえってくるはずだったので、納得でした。
その当時の日記を読み返すと、そのときの心境がよく現れていたと思います。
「神様、どうかお願いです。どうしてももう少し勉強がしたいです。何か見つかりそうなんです。もし私がサイモンフレーザーに行くことができたら、世のため人のため働きます。」
こんなことが書いてありました。21歳の頃の文章です。
それから、2ヶ月。
私は、精神的にギリギリのところで頑張ったと思います。他の人は意識していませんでした。日本で頑張っていたときに比べて、どうやらそのときくらいからか、判断の基準が自分自身になったのを覚えています。第6感というのか、サイモンフレーザーに自分がずっと求めていた答えがあるような変な気がしていたという理由もありました。UBCから合格通知はもらっていたのに、不思議にサイモンフレーザーにこだわっていたのを覚えています。
私は幼い頃から家族に依存症にかかった人がいたため、普通とはずいぶん違う生活環境に育ちました。子供ながらも、自分でどうにかしたいという想いがありました。
カレッジに行ったとき、依存症に関連する基礎科目を受講して、なんとなくですが、何が問題なのかというのがわかってきました。さらに、根本的な原因や対応というものを考えるには、やはり根底にある理論を勉強する必要があるんだということも教授から教わりました。
これもこだわりの理由だと思いますが、カレッジで担当していただいた教授は昔、サイモンフレーザーでも教えていたことがあると。教授から、「依存症についてもっと勉強したいのなら、サイモンフレーザーに行きなさい。」と言われたのです。
春。
今回のTOEFLで点数が取れなかったら日本帰国決定という大事な試験でした。そういう時に限って、結果通知を開くだけでも手が震えて、涙が出てきたのを覚えています。開封するのが怖くて、しばらく封筒を手に持ったまま立っていたのも、昨日のことのように覚えています。
開けた瞬間。600という数字が目に飛び込んできました。半分気絶するみたいに、床にうずくまっちゃいましたね。そこから私のサイモンフレーザー大学での生活が始まりました。